『多文化・多民族・多国籍社会で「人として」』さんからTBをいただき、返そうと思ったら通らない。何度もやっているうちに
記事の中で「差別権」という言葉が目に入った。こうなったらもうダメ、何だろうと思って見に行ってしまった。
こちら。そして「差別権」の発信元も見に行ってしまった、アホだな、オレは。
で、そのサイトの言うところを詳しく見ていくと・・・(サイトの主張が青い文字、その後の普通の文字は私のツッコミ)
憲法14条は法の下の平等であって個人間の平等ではない(いや、法の下に個人が平等なんだけど)。
憲法というのは法の法であって個人が守るものではない。日本は個人が他人を差別することを禁じた法律はない。 「憲」自体が法という意味を持っているから、言葉上、憲法=法の法 というのは正しい。ただ、個人が守るかどうかは関係がない。国家行政組織法は「法の法」ではないが、一般の個人が守るものではない。逆に憲法でも18条や28条は個人間にも適用されるとされる。
次に、個人が他人を差別することを禁じた法はないというが、実は労働基準法3条などたくさんある。
憲法に定められているなら処罰できるというなら(言ってない)、
憲法1条で天皇を象徴として敬わなければ処罰されることにならないか(ならない。象徴に積極的な意味はなく「象徴に過ぎない」という規定だから)。
具体的な法律も基準もなく処罰できます(ありえない。憲法31条は具体的な法律なしに処罰することを禁止している。憲法と刑法の区別をしたほうがよい)。
人は誰でも好きな人と嫌いな人、尊敬する人と軽蔑する人がいます(そのレベルの話ではない)。
差別禁止の名目で国家権力が介入するのを許せば、思想、宗教、信条の自由など無くなってしまいます・・・・私は信じます。 差別権は基本的人権です。 ここまでほとんどすべて間違っているが、最後の文だけは意味を持ちうる。国家は市民の社会生活に介入してはならない、これは一応言える。国家なんてガードマンだけやっていればいいのである、と言いたくなるほど国家がウザイ時代があった。そこで自由権が主張されたわけで、国民生活に過度の介入をしてはならない。但し、それは通常の自由権であって、「差別権」と言う必要はない。
そういう「人権」もあった
ところが、こういうタイプの権利が堂々と主張された歴史はちゃんとある。
例えば、営業の自由や財産権などの経済的自由権は、貴族や僧侶に対して市民階級が、「おまえらは何も生産してないだろ。ワシらが働いて作った物はワシらの物じゃ」と正当性を主張した。ところが、市民革命の後、ブルジョアジーと労働者達が対立する場面が生じてくると、その言葉はそっくりそのまま労働者達からブルジョアジーに浴びせられることにもなりうる。そこで、「ま、ま、権利の正当性とかそういう話じゃなくて、自由を保障するためには社会に国が介入すべきじゃないってことで・・・」というように、その根底にある権利の正当性は突き詰めると都合が悪いのでさておいて、とにかく介入は悪、というだけの主張に変わってきた。
その主張は、国家の介入を阻止して自由を守ろう、というスローガン以上のものではなく、「差別権」のようにその背景に実体的な権利があると主張されることはなかった。どうしてだろうか。
もちろん当時の社会に生きていたわけではないから、想像でしかないけれど、企業もそれほど巨大でなく、人間が育つために今ほどの教育が必要ではない時代にあっては、一応どんな人でも逆転の可能性はあった、と言うか信じることができた。つまり今ほど格差が固定した時代ではなかったので、自由が一番ですよ、そうしたら誰にだって機会は均等ですよと主張しても、白々しいとまでは言えなかった。
新自由主義の人権宣言
しかし、今のように高度な教育が不可欠な時代、しかも金がなければ高度な教育が受けられず、事実上世代間の格差がそのまま受け継がれるような社会になったら、自由が一番ですよ、と言ったって、しらじらしい。そもそも生まれの格差があって機会均等の前提すらないじゃないか、と言われたら、もはや自由では説明がつかない。
そうなったら、人間なんてもともと平等なものじゃないんだ、くらいの開き直りが求められる。そんな時代になってきているのかもしれない。ただの自由権では足りない、人は元来不平等なもので強者が弱者を差別するのは当然、基本的人権だ、とまで言わなければこの社会を説明できない事態が来ているのではないか。
私は以前から、国家が介入してはならないという思想は昔からあるのにどうして「新」自由主義というのか不思議に思ってきた
※が、彼らの主張が新しいと言うより、この段階の社会にいたって自由を主張することがどういう事態をもたらすのか、それが新しいのではないかとすら思えるようになってきた。
笑っていられない
というわけで、最初私は、「差別権」を書いた人をお笑いのネタにしたようなところがあったかもしれない。憲法など理解しない人が言っているだけで、こんな稚拙な意見が今の世相を反映しているわけがない、という扱いをした。
しかし、本当は笑っていられないような気がしてきた。
現代の国家においては差別をなくし、実質的平等(結果の平等)を小さくしようとする福祉国家が当たり前と思ってきたし、当たり前だからとどこか安住もしてきたかもしれない。
しかし、もはや新自由主義者にとって、福祉を充実させ、所得の再分配をしっかりやる国家は、アンシャン=レジームであって、本来不平等なものを不平等と扱うべき自然権を害する、そういう主張が底流から少しずつ顔をのぞかせている、そういう時代状況があるような気がしてきた。
※自由主義と新自由主義 無知を晒して恥ずかしいのだが、実は多くの方が書かれている「新自由主義」は何をもって「新」と言っているのか、正直なところ未だにあまりわからない。
私の推測では、古典派経済学とマネタリスト、合理的期待形成学派の違いを反映しているのだろうと思う。確かに以前の自由主義ではマクロ経済政策無効とは誰も言ってなかったというよりマクロ経済学自体がなかった。以前は、供給が需要を生み出す(売れなきゃ価格が下がるだけ、ちゃんと売り切ることができる)と考えられていたので、不況も失業もない。現実は全く違い、ケインズらはそういう潜在的な需要の理論だけではダメだと考えるようになってきた。
しかし、本当にケインズ政策は有効なのか、その無効論をマクロ経済学のレベルで主張するようになったのがマネタリストや合理的期待形成学派である。主としてケインズというよりケインズ政策批判の形を取っているのだが、結局のところ突き詰めていけば価格調整が速い、もしくは瞬間的であることを信じるもので、市場原理主義と言ってよい点は以前と大きくは変わらない。
>ただの自由権では足りない、人は元来不平等なもので強者が弱者を差別するのは当然、基本的人権だ、とまで言わなければこの社会を説明できない事態が来ているのではないか。
この視点にはっとさせられました。その一方で、差別権って言葉になんだか倒錯したものを感じるのは、私の頭の中身が古いせいかも(汗)。
まあ私の頭の中はともかく、福祉国家観も含めて土台から修復していかねばならぬ状況なんでしょうね。となると、ますますもって19世紀的というか20世紀前半的というか、先祖帰り的な時代状況にあるんだなあと強く感じます。「新自由主義」の台頭も含めて。なんともやるせない話でありますが。
「経済的自由」主義者が政治的自由を侵食する
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/9f540164462bda95f53ace9d2249e5b9
私の浅い知識で言うと、本来の自由主義は個人の政治的自由を男女門地の区別なく、憲法によって保障しましょう、といいうものであって、経済的な意味合いはあまりなかったと思います。もちろん人間の平等を信じるという思想的基盤の上にリベラリズムはありますから、従来は再分配によって結果の平等も目指しましょう、という傾向としてあったのでしょうけど。
「ネオ」リベラルが問題なのは、金持ちが自分の「経済的」自由を守るため、「俺のカネを貧乏人にばらまくな」という言う分を、洗練された「構造改革」などという詭弁で押し通すことだと思います。その結果、「全ての人に基本的人権を」という政治的な自由は侵食されるような結果になってしまいます。
>新自由主義者にとって、福祉を充実させ、所得の再分配をしっかりやる国家は、アンシャン=レジーム
これはLuxemburgさんのおっしゃるとおりだと思いますよ。「せんたく」も「累進課税の簡素化」を目標にあげていますからね。
差別が金になる不思議な構造
あれは暴力的利権団体の部落解放同盟(解同)釣り記事ですよ。
『右派の皆様が蛇蝎の如く嫌っておられる「人権擁護法案」に関して、特に知識が深くない私なんですけど、こんな奴がいるんじゃ、同法案って必要なんじゃねーの、って思ったよ。』とか、
コメント欄には、
『人権擁護法案については、共産党も反対しているわけですが、こんなわけのわからん大馬鹿が騒いでいるから逆に左派リベラルが「あ、もしかしたらいい法案なのかも?」っておもっちゃうんですよ』
これは人権擁護法案推進の解同の活動の一環です。
中南米のマスコミが、シカゴボーイズが自由主義とは相容れない政策を実行して自由主義とは似ても似つかない社会をつくってしまったことを「自由主義のふりをした自由主義じゃないもの」と言う皮肉をこめて新自由主義と呼ぶようになった
・・・のだそうです。
原稿見ないで、その場で適当に言っていたような感じだったんですけど、まぁそうなんですかね?
ついで言うと、フリードマンもその弟子たちも国富論も禄に読んだことのないナイーブな連中なんだそうです。
新自由主義を推進したIMFの職員に先生の弟子もいたんだそうですが「優秀な学生はIMFなんかにいかない」と言い切って、爆笑をさそっておりました。
江戸時代の悪、身分差別
士農工商の身分制度から来る身分社会だったので当然といえば当然で、平民とされた後も、幾等かは残った。
其れが同和差別問題。
身分社会から150年間が過ぎ去り、基本的には02年の特別処置法の失効を持って、すべての同和対策が終わった。
しかし困った人たちもいた、同和予算関連で食っていた人達が困った。
此の辺の事情は、道路特別会計の話とまったく同じ既得権益の話。
当時、自民党で大きな力を持っていた京都の同和利権の総元締め野中広務元幹事長が同和予算復活の為に考え出したのが『人権擁護法案』です。
野中は引退するも京都では、現在も黒幕として君臨。
同和利権の恒久法推進は、道路利権等の(玄界灘の極道)古賀元幹事長が後を引き継ぐ。
差別は金になる。差別が無くなったら困る人たち関西には沢山がいるんですよ。
江戸時代でもあるまいし、21世紀の今頃に、身分制度(差別)で利権アサリとは、余りにも時代錯誤も甚だしい。
コメントありがとうございます
TBについては、送る側の問題かもしれません。結構あちこちでトラブルになっています。
ほんとに日本は追い詰められているのに、どうしてもう少し真剣さがないのかなぁ、なんて思いますね。
>みーぽんさまコメントありがとうございます
いやいや、皆さんにお聞きしてよかったです。どうも胡散臭いなと思っていたら、やはり新自由主義というものについては半分はラベルで、きちんとした内容はないということだったんですね。勉強になりました
> 余り素直に反応しない方が賢明
そうですね、最初に今日は半分おふざけですと書くべきでした。
> KOさま
そうかぁ、何だかきちんとした主張、きちんとした学説というより、日本でハイエナといわれるそんざいとあまり変わらないということだったんですね。
それにしても不勉強をさらして恥ずかしい次第です。
> 逝きし世の面影 さまコメントありがとうございます。
人権擁護法案そのものについては特に何も書いていないつもりだったんですが、やっぱりその話にはなるかもしれませんね。私はただ「差別権」という言葉を取り上げてみただけなんですが。
新自由主義
なお、新自由主義の範囲は広く曖昧ですが、その経済面を支えるのが市場原理主義です。
差別権があるなら犯罪権もあるでしょう。空想世界の概念です。
ところで政治ブログシーンとやらの言葉の使い方はずいぶん乱れていますが、ずっと気になっていて、ここのコメンターにもこの語を使う方がいらっしゃるので書いておきます。
Rock 'n' Rollのckをケと表記する、つまりロックンロールをロッケンロールあるいはロケンロールと書くのは、日本のごく一部で用いられる文化的方言というべきもので、実際のロックミュージシャンはまずこの言い方をせず、蔑称として不快に思う場合さえあります。
ブログでロケンロールをうたうときは、ロックンローラーとそのリスナーたちから、無視され、失笑され、場合によっては怒りを買うことを覚悟しておきましょう。
なるほど
大体の語感がわかってきました。初めてフリードマンを読んだときは価格調整と数量調整の時間の捉え方の違いくらいしか感じなかったのですが、そういう穏やかな問題ではなさそうですね。そういうマクロ的経済政策の有害論を超えて、原理主義にまで高まっている、そのわりにアダムスミスが持っていた市場の限界やそれについての問題意識の理解もない、ということになると、狂信的なにおいがあることもわかってきた気がします。
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