選挙制度として、小選挙区制、大選挙区制、比例代表制のどれを取るかは一長一短があり、一概にどれといえない、とされている。とんでもないことで、国民一人一人が、自分の意見を正しく国政に反映させるための権利を有していると考えるべきである。だから、私からすると上の見解は、「人権を保障する社会とそうでない社会、一長一短あってどちらが絶対なんていえないんだよな」、というトンデモ意見ということになる。
元々人権は、国家の干渉を逃れて自由であるために主張されたもので、国家から逃げる方向にベクトルが向いていた。選挙権はその意味では国家権力にベクトルが向いた権利で、当初の人権とはちょっと違うものだが、国家を我々自身の手で組織しない限り、民衆はいつまでも支配の客体でしかないから、自由も平等も生存もあったものではない。だから、当初の人権とはちょっと違う、なんてお構いなし、民主主義を勝ち取ってきた人たちがこれを人権と主張して、どんどん選挙権が広がってきた。
日本国憲法でも普通選挙や平等選挙が定められているから、たとえば税金を支払った人だけに選挙権があるとか、税金を多く支払った人には投票用紙が2枚以上渡される、などということは許されない。
それでもまだ不十分である。憲法は国民主権とは書いているが、国民主権だけだと「政治に関しては最終的には国民が権威を持ってる」という、ほとんど何を言っているかわからない内容しか持たない。わからないのは当然で、今から200年以上前、無産者大衆の意思がストレートに議会に流入することをおそれて、民主主義を遮断するために、国民主権や国民代表という言葉が使われていた。だからどんな選び方をしても国民代表だし、選挙なしに国民代表ということも可能だった。
憲法前文はさすがに「正当に選挙された」国会における代表者、と表現しており、選挙なしの国民代表までは認めていないが、民主主義を規定するとまではいっていない。しかし、多くの学者はこの国民主権を民主主義に近づけて考えようとしている。
そんな中で、選挙区によって議員一人あたりの有権者数の比が不均衡だと、一票の実質的な重みが変わるから、国民は政治的価値において平等であるという平等原則に反すると最高裁までが認めている。
最高裁は、民主主義という言葉はさけているようだが、「政治的価値において平等」とは結局民主主義を意味していることになる。また、平等原則に反するとすれば人権の問題であることも実質的に認めていることになる。
にもかかわらず、小選挙区制が憲法違反であるとする訴えに対しては
代表民主制の下における選挙制度は、選挙された代表者を通じて、国民の利害や意見が公正かつ効果的に国政の運営に反映されることを目標とし、他方、政治における安定の要請をも考慮しながら、それぞれの国において、その国の実情に即して具体的に決定されるべきものであり、そこに論理的に要請される一定不変の形態が存在するわけではない。(最高裁大法廷判決1999年11月10日)
というふうに、結局民主主義を遮断するための国民代表制という大昔の観念に舞い戻っている。
新しい時代を作っていくのはもちろん裁判所ではなく私たちである。私たちは、選挙権が人権かどうか怪しいとされた時代に堂々と権利として主張し、民主主義を進めてきた人たちを見習うべきである。
だから、我々が政治の主役であり、国民の意思をゆがめたり、少数派の意見が反映されないような選挙制度でなく、国民の意思が反映される選挙制度を求める権利がある、と主張するべきである。
だから、比例代表だと政治が不安定になる、などという主張に耳を貸す必要はない。そういう主張は、人権を制限した方が社会の秩序と安定が図れる、という主張と大差がない。
憲法を護るとは、現行憲法の一字一句に金科玉条のごとく執着することではなく、憲法を生み出し育ててきた歴史に学ぶことであるべきだ。
権利とは、「お上のお墨付きが得られる利益」ではなく、新しい社会や秩序を作っていくものであったし、またこれからもそうでなければならない。
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